この世界には“ネコ”と呼ばれる生き物がいる。
それは猫とは違い、人間たちの手によって改良された人型愛玩動物。
それがネコだ。
基本形態は人型。そこに猫の遺伝子を組み込み。
制御プログラムを脳に組み込んでいる為、
学習次第でほとんど人と変わらない生も望める。
…その反面、人に逆らうことは出来ないよう制御される虚しき生き物。
まさに金持ちの道楽の為に作られたようなそれは、一般人には手が出せないほど高額。
まぁ、それを知ったところで私には興味も関係もないものだ。
そのはずだった。この日までは。
子猫拾いました。
にゃぁー…
(助けて…まだ、僕は死ねない…)
雨脚の強くなる中を駆けながら今朝「今日は晴れるぞ!」と言っていた友人に呪いの言葉を吐きそうになる。
そんな時、裏路地の方から雨音に消されそうな弱々しい声が耳に届いた。
この雨の中そんな小さな声が偶然であっても聞こえるはずなどない。
しかし、その声は確かに私の耳に届いたのだ。
「…(無視…するか?)」
そうだ、猫の声などどうでもいい。
今はこれ以上濡れる前に早く帰宅しなければ明日の仕事に影響が出るかもしれない。
「……ちっ」
思考ではそう思っていたのに、
何故か其処に行かなければならないような気がして、
そんな気分になってしまった自分に一度舌打ちすると路地裏に向かっていた。
「…っ」
裏路地に入っていくと打ち捨てられたゴミが凄まじい臭気を放っていた。
その臭気に思わず口を袖口で覆う。
…こんな所にノラであっても、猫なんて果たしているのだろうか?
そう思いながらも、声の聞こえた方へと歩いていく。
路地の突き当たりには「ゴミ捨て場」と書いてある看板。
だが、どう見てもゴミ捨て場と言うより、ゴミ山だろう。
久しく回収されていないゴミには草木が生え始めていた。
「困りましたね…」
眼前のゴミ山に諦めの決断を下そうとしたその時、また弱弱しい猫の声が聞こえた。
声の主である猫はこのゴミ山の向こうにいるのだろう。
元々弱かった声は鳴く力も失われつつあるのか、ますます小さくなっていた。
間違いなく発信源はこのゴミ山の向こう側。
「ハァ…この靴、もうダメですかね…。」
靴を見て、溜息。
どうしようかと、悩みつつ視線を下にやるとゴミでドロドロに汚れた靴。すでに汚水が染込み始めて中まで濡れている。
もう、雨に濡れることは諦めていたが、靴までこの有様。ここまで汚れて何を迷うことがあるだろう。どうせなら、ここまで来た元凶を見つけよう。
そうしなければ、こんなに雨に打たれたのか意味がなくなってしまう。
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □
結局ゴミの山を越えたすぐそこに声の元は転がっていた。
決して比喩表現ではなく本当にゴミに紛れるかのように転がっていたのだ。
しかし、私が驚いたのはそこではない。
そこに居たのが、猫は猫でも、あの「ネコ」だったことだ。
まだ、子供サイズの猫の耳と尻尾を生やした人型のそれは酷く弱っていた。
ゴミに塗れて汚れた身体。
雨に濡れてぺたりとしている耳と尻尾。
そして、長時間の雨で濡れた衣服は身体にへばりつき、浮き上がった身体のラインはガリガリに痩せ細っていた。
はっきり言って酷くみすぼらしい姿であった。
それも当然だろう。ネコは本来人間の庇護下で育てられているものだ。
こんな劣悪な環境に耐えられるわけもない。
ただ、その薄く開いた口から時々漏れる弱い鳴き声と、今にも閉じてしまいそうな目蓋から覗く、深い紫色を湛えた瞳から目を逸らせなくなった。
ネコのその姿を哀れんだのか…いや、私に限ってそんな心があるとは思えない…。
だが、放って置けないような、そんな気がしたのだ。
私は再びその不思議な情念に突き動かされるように、薄汚れたネコを抱き上げていた。
その行為にふと、既視感を覚えた自分を不思議に思いながら…。
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □
(まったく、今日の私はどうしたのだろう。おかしいとしか思えない。)
いくら、本物のネコが珍しいとはいえ普段ならこんなみすぼらしいネコなど早々に捨てているだろう。
いや、それ以前にあんな汚い薄汚れた路地裏に入ることすらしなかっただろう。
なのに、面倒だと思いながらもなぜ、世話を焼いているのか…。
(本当に、まったくもって今日の私はおかしい。)
何度目かになる溜息と共にネコをちらりと見る。
ネコを拾って、直ぐに買ってきたネコ専用ミルクを温めた。
だが、弱っていたネコはぐったりとしていてせっかく温めてきたミルクも飲まない。
それどころか、段々呼吸も荒くなってきているようで、死期が迫っているように見える。
部屋の暖房も入れたし毛布に包んだがその体が温まることはなくガタガタと震えている。
とりあえず、冷えた体を温めてやらなければならないだろう。
自分は医学を齧っているが、人間専門だ。果たしてそれが、ネコに通じるか…。
しかし、拾ってしまった手前家で死なれるもの寝覚めが悪い。
(…面倒なものを拾ってしまいました。)
そう思いながらも、とりあえず体力を奪い続ける冷えた身体を温めるべく、風呂に連れて行くことにした。
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □
抱きかかえられたネコはとても大人しかったが服を脱がせる段階で突然暴れた。
「ほら、大人しくなさい。悪いようにはしませんから、お風呂に入れてあげるだけです。」
しかしそのやつれた身体では力が入らないのだろう。
「みゃー…!」
抵抗の為に出した爪はその役目を果たすことなく、空を切った。
終始ネコは暴れたが、大した苦もなく服を脱がせ終わり現れた肢体に絶句する。
「これは…酷い…。」
拾った時感じたとおり骨と皮ばかりのように酷く痩せ細っているのもさることながら、
最も目を引いたのはまるで、虐待でも受けたかのような生々しい傷跡だった。
常習的に傷つけられたであろう体には古いものから新しいものまで混在していた。
あまりに汚く、痛々しい小さな身体。
少しでも力を入れたら折れてしまいそうだ。
そう思って、壊れ物を抱くように一層優しく腕に包みながら一緒に浴槽へと浸かった。
「大丈夫ですか?」
お風呂に入れると再び大人しくなったネコに「傷口がしみるのではないか」と尋ねる。
「にゃーぅ」
…?このネコは喋れないのだろうか?
普通のネコは主人との意思疎通の為に言葉を覚えさせるものなのだが…。
「あなたはしゃべれないのですか?」
「みゃー…?」
首をかしげて不思議そうに鳴く。
その様子から察するに、やはり言葉は喋れないようだ。
凍えて死体のようだった体に生き物の温かみが戻り始めた。
まどろむようにウトウトとし始めたネコは一声鳴くと、くたりと身体の力を抜いて眠った。
まるで安心して私に体を預けるように。
そのまま、浴槽から上げて石鹸で身体や髪、耳、尻尾を優しく洗う。
すると、汚れで覆われていた身体は白磁器のように白く透けていて玉のような肌が表れ、髪は艶やかに銀色の輝きを放った。
今は力なく垂れた耳と尻尾はつやつやと輝き、いかにも高級そうな見事な毛皮。
まさに愛玩されるに相応しいネコだった。
正直、これなら飼ってみたいと思う気持ちも分からないでもないな、と思ってしまうほどには。
しかし、一つ残念な事に長く美しい銀糸の髪はゴミが付着し髪と絡まり全く取れない。
仕方ないがこれは後で髪を切るしかないだろう。
そして、ネコを洗い上げると、そっと抱き上げ浴室から上がった。
身体を拭いてやると、暖まったネコはほんのりと全身がほんのり赤く染まっていて、
最初の青白い死にそうな顔よりだいぶマシになっていて少し、安心した。
抱えたままだったネコをソファの上に寝かせ、ついでにタオルケットをかけておいた。
「さて、この後どうしますか…。」
このネコ…拾ったはいいが、どうやら言葉も話せないようで、名前も飼い主も分からない。
とりあえず今日はもう遅いし、このまま今日は寝かせても良いのだが…。
いや、寝る前に一応食事をさせたほうがいいのだろうか…?
「はぁ、あの人に聞いてみますかね。」
あの人とは、今日晴れそうと豪快に笑って言った友人。
彼は以前からネコを飼いたいと言っていたし、どう治療したらいいか少しくらい聞けるかもしれない。
私は鞄に入れっぱなしだった携帯末端を取り出しコールする。
「もしもし。ピオニー?…あなた今日晴れるって言いましたよねぇ…なのにこの雨…おかげで、びしょ濡れですよ。全く…今度会うときは覚悟していきなさい。」
電話の向こうで誠意の感じられない謝り方をする相手に脅しをかけつつ本題に入る。
「まぁ、いいです。本題に入りましょう。貴方前にネコを飼いたいと言っていましたね。
ちょっとわけありで今うちにネコがいるのですが、どうも弱っているようで…対処法を知りませんか?」
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □
ピオニーから聞き出したいことをだいたい聞き終わると、まず先ほど温めたミルクを再び温めなおすことにした。
ピオニー曰く、ネコの基本は人間と対して変わらないらしい。ならば、まずは衰えた体力を回復させる必要がある。
「ほら、ネコ、起きなさい。ミルクを温めましたよ。」
軽く揺するとにゃーと鳴き、軽く伸びをする…。まるで本当の猫のようだ。
そんなことを思いつつネコの前にミルクを差し出す。
と、寝ぼけていたネコは目をしぱしぱと瞬かせる。
すると、私の姿を認めビクっとしてタオルケットの中に隠れてしまった。
「…ほら、おちびさん、出てきなさい。」
助けた人間に対する態度としてはちょっといただけない。少しムッとする。
タオルケットをグイッと引っ張ると、タオルケットと一緒に床へ転落。
「…痩せすぎ、ですね。それに力も無い。」
そう言うと、言葉を理解することは出来るのか。
みゃーみゃー鳴いて抗議しているようだ。
「うるさいですよ、今何時だと思っているのです?お馬鹿なネコですね。」
「みゅー。」
そう言うと一言、不満そうな顔で鳴いてから、ぴたりと黙った。
「おや?いい子ですね~。」
試しによしよしと顎の下を撫でると目を細めて気持ちよさそうにごろごろと鳴く。
本当に、ネコの遺伝子が組み込まれているのだな、そう実感する。
「では、賢いおちびさん、これを飲んでくれますね?」
そっとミルクを差し出すと、少し、匂いを嗅いでからぺろりと舐めて舌で味見をする。
最初の味見を終えるとよほど喉が渇いていたのか、空腹だったのか、物凄い勢いで飲み始めた。
「そんなに、がっついていると口周りが汚れますよ。」
そう言いながらも、無心にミルクを飲むネコの頭をそっと撫でようとした、その時だ。
「みゃ!!」
手を避けるようにタンッと一歩後ろに飛ぶとガタガタと震えだした。
「…?どうしたのです?」
「に゛ゃー!!」
あまりの豹変にビックリして尋ねるが、言葉を喋れないネコは頭を抱え怯えたように鳴き続ける。
これは…。
頭上に掲げられた手。
この怯えよう…。
まさか本当に虐待にあっていたのだろうか…?
「大丈夫ですよ、私は貴方を殴ったりしません。」
なるべく怯えさせないように、ネコと同じ目線まで屈み、そっと腕の中に包み込む。
「はら、何もしないでしょう?大丈夫ですよ、ゆっくり息をして…。」
腕の中で暴れることも出来ないほど、ガチガチに固まっていて、段々呼吸が荒くなってきた。
目はカッと開き瞳孔が開いて涙がポロポロと溢れ出て、心臓はドクドクしているのに、体温は急激に下がっている。
恐怖による極度の緊張状態。
それを落ち着ける為に、自分の体温を分け与えるように、ぎゅっと抱きしめた。
「ここには貴方を傷つけるものは何もありませんよ、大丈夫ですから…」
幾分か呼吸が安定してきて、体温が戻っていく。
暖かい腕に包まれながらネコは思い出す。
遠い昔のネコの一等大切な思い出を。
むかしも、いっかいだけだっこしてくれた。
あのときと、おなじ。
あったかい。
いいにおい。
だいすき。
ネコはふわふわした気持ちになって、その温もりに抱かれ段々と瞼が下りてきた。
「おや?寝てしまいましたか?」
震えが治まってきたと思ったら腕にかかる重さが増した。
腕の中を見ると先ほどの怯えが嘘のように、安らかな顔で寝息をたてていた。
その姿に苦笑しながら、ネコを抱えあげ寝室に運ぶ。
ベッドの上にネコを横たえ、立とうとするとグイっと服を引かれた。
見ると、ネコのちいさな手が服の裾をしっかり握っている。
少し困ったが、ピオニーの言葉を思い出してとどまった。
『…正直、お前がネコを助けるのは難しいかもしれない。だってネコは……、いや、なんでもない。
…そうだな。少しでもネコを助ける気持ちがあるなら、優しくしてやれ。女子供にするように、優しくだ。ネコが何か求めてきたら与えられるだけ与えてやれ。
後は、出来るだけ接触することだな。人の温もりを与えてやるといい。』
なぜ、私がネコを助けるのが難しいのかは分からない。しかし、ネコのこれは温もりを求めてのことだろう。
ならば、求めているネコに今の私に出来るのは一緒に寝てやることだ。
ベッドのネコを少し端に寄せると、自分はその横に入った。
ベッドは疲れを取る為には質の良い睡眠が必要だと、ダブルサイズにしていてよかった。
これならばネコと一緒でも窮屈では無い。
まさか、ネコと一緒に寝るとは思わなかったが、こんなのも悪くない。
だってネコの身体は小さくて、ジェイドの腕にすっぽりと納まってしまうし、
なにより、温かくて、気持ちがいい。
「おやすみさない、おちびさん…。」
そう言うと、ジェイドの服をしっかりと握ったままのネコと一緒に横になって、電気を消した。
2008年2月22日
修正 2009年2月9日
[2回]
PR